1
二月の夜空に巨大な満月が輝いている。
広瀬は立ち止まり、しばらくその光に見入ったあと、懐中電灯をかざして鍵を開け、ビニールハウスの中に入った。
そのハウスは、農園内にある他のものと違って、薄いグレイの不透明なビニールが張られている。内部に作物はなく、中央辺りに黒いビニールで覆われた、もう一つの小さなハウスがあった。
広瀬は簡易に作られた扉の前に立つと、懐中電灯を消した。グレイのビニールの天井部分がほのかに光っている。その彼方には月があるのだろう。
彼は一呼吸おいてから、扉を開けて小部屋内に足を踏み入れた。暗いはずの室内が青白く光っている。広瀬はほっとした顔で、その光の源を見た。地面に奇妙な形の植物が植えられており、全身が淡く発光していた。
こいつが俺の前に現れて以来、幾度となくこの光景を見ているが、何度眺めてもこの世のものとは思えないな、と広瀬は思う。
彼はそばにあるパイプ椅子に腰を下ろした。椅子の前には小さな木のテーブルが置いてある。夜になり冷え込んできたが、室内に暖房器具はない。ダウンパーカのジッパーを顎の下まで引き上げた広瀬は、光りを発している植物らしきものをじっと見つめた。
「頼む、力を貸してくれ」
彼はそうつぶやくと、ゆっくりと目を閉じた。
室内に沈黙が満ち、広瀬の立てる規則正しい呼吸の音のみが冷気の中を漂っている。
突然、彼は目を開けてテーブルの上を見すえた。鋭い視線が届いた先には、一個の紅い林檎があった。その姿を確かめるとすぐに、彼はふたたび目を閉じた。
まもなく紅い林檎の隣に薄緑色の林檎が忽然と現れた。広瀬はまだ目をつむったままだ。
やがて目を開けた彼は、テーブルの上を見て安堵した。
「ここまではできる。問題はこれからだ」
彼は淡く光っている存在に向かって頭を垂れた。
「今日こそ成果を出したい。もう林檎には飽き飽きだ。どうか、力を」
広瀬は目を閉じ、かつてないほどに意識を集中させた。不精髭に覆われた顎の辺りがピクピクと動く。冷たい夜気のせいか、顔全体が白っぽくなっている。
ときおり犬の遠吠えが聞こえる。農園は小高い丘の上にあり、辺りに人家は無い。おそらくその声は麓の方から風に乗って運ばれてくるのだろう。
犬の鳴き声を頭から追い払うように、彼は素早くかぶりを振った。そうして少し背筋を伸ばし、身体の動きを止めた。
しばらくその状態で黙想していた広瀬の顔が微妙に変化し始め、やがて怒りの表情に変わった。
「くそっ」
広瀬はぱっと目を開けると椅子から立ち上がり、テーブルの上の紅い林檎をつかみ取って、光るものに向けて投げつけようとした。しかし、すんでの所で思いとどまった彼は、標的をハウスの隅に変えて思いっきりぶちかました。ビニールが張られている鉄のパイプに激突した林檎はぐしゃっと潰れ、果肉と汁が辺りに飛び散った。
「何がいけないんだ」
広瀬は地面から生えているものを睨みつけた。暗闇の中で淡い光を発しているそれは、わずかに輝きを増したような気がする。そう感じた彼は、はっと我にかえり、溜息をつきながら椅子に腰かけた。
夜が深まってきたのか、いちだんと冷えてきた。失望した心に寒さがしみて、広瀬はぶるっと身震いをした。
目の前には発光植物があった。相変わらず飄々とした奴だと広瀬は思った。形態は植物のようだし、大地に根付きはしたが、どうも人格と呼ぶにふさわしい何かを持っているようだ。
広瀬がこれまでに育てたり観賞したりした植物にも意志のようなものを感じたことはある。そう、確かに彼らには意識がある。長年に渡る植物との関わりから、彼はそう確信していた。
不意に風の音がした。知らぬ間に風向きが変わったのだろう。もう一度大きな溜息をついた広瀬は、今夜は諦めて引き上げることにした。
「なあ、あまり焦らすなよな。短いといえば短いが、もう半年のつきあいだぞ」
彼はもの言わぬ相手に対して独り言を言うのに飽き飽きしていた。
突然、広瀬の頭に閃くものがあった。彼は心のうちでそのアイデアを反芻したのち、実行することに決めた。
「いいか、明日、いや、まだいつになるかわからんが、ちょっと面白くなるぞ」
彼は、ぶつぶつ言いながら帰り支度をした。外側のハウスに鍵をかけ空を見上げると、月光は深い藍色を背景に冴え渡っていた。
2
「さやか、いいかげんに起きなさい」
階下から呼ぶ母の声に、布団の中でまどろんでいたさやかは、ようやく起きあがる決心をした。
「聞こえてるの?」
せっかちな母の裕美子は、今にも階段を駆け上がって来そうな勢いである。
「ちゃんと聞こえてますよ。いま起きるから」
さやかは仰向けのまま大きく伸びをしたあと、ベッドから下りてカーテンを開けた。
正午近くの日光が室内に射し込んでくる。眩しさに目を細めながら、彼女は窓の外に広がる木々の緑とその上の青空を眺めた。もうじき三月になるとはいうものの、まだまだ気温は低い。でも今日みたいな天気のいい日中は、ちょっと戸外で風に吹かれてみたいとも思う。さやかは久々に車で遠出してみることに決めた。
シャワーを使い、簡単に化粧を済ませたさやかは、ようやく台所のテーブルについた。
「溶けた目玉で玉子焼きしようか?」
裕美子は呆れた顔で言う。
「いいじゃないの、たまの休みなんだから」
「そんなに寝てばかりいると、身体も心もぶよぶよになるからね」
「失礼ね。この張りのある肉体は永遠に不滅よ」
「なに言ってんのよ。さっさと食べなさい」
もうじき昼食の時間ではあるが、起きがけにはコーヒーを飲むさやかのために、裕美子はロールパンとハムエッグと野菜サラダを用意してくれた。
こんなとき、さやかは家族のありがたさをしみじみ感じる。しかし、すでに三十路を超えているのに両親と暮らすことに苦痛を覚えることもある。いつまでも嫁に行かない娘に心を痛めているだろうし、折にふれてその話題を出してもくる。
さやかとて結婚を意識していない訳ではなかったが、今はその対象として付き合っている相手もいなかった。
「お父さんは?」
さやかは焼きたてのロールパンを二つにちぎりながら訊く。
「ゴルフよ」
「またゴルフなの?」
「しょうがないわよ。仕事がらみだしねえ」
「たまには食事にでも連れてってもらいなさいよ」
「そんなこと夢のまた夢よ。最後に一緒に出かけたのは、たしか昭和」
「おいおい、今は平成だよ。お父さんも考えを改める必要があるわね。だって定年迎えたら、一日中お母さんと一緒にいるわけでしょ?」
「いやよ。一日顔付き合わせているなんて」
「だから、今からその状態に慣れるよう努力するのよ」
「お父さんが定年になったら、今度は私が外で働こうかな」
裕美子は自分のコーヒーカップを持って、さやかの向かいに座った。
「働くって、何するのよ」
「この美貌と抜群のスタイルを活かす何かよ」
「よしてよ。誰も相手にしない、しない」
とは言ったものの、母はたしかに同年輩の女たちに比べて若く綺麗だとさやかは思った。父とは歳が離れており、二十代の初めには結婚していたので、父が定年を迎えたあとでも五十路の美しさを期待できるかもしれなかった。
「男性に相手にされなくてもいいの。私は、広く世界に目を開いて、この人生の意味なんかを考えてみたいのよ」
「へえ」
「どう、なかなか言うでしょ」
「言う、言う」
サラダをつつき、ハムエッグを食べ、コーヒーを飲みながら、今日はどこまで走ろうかと考え始めたとき、電話が鳴った。
裕美子が立ち上がって子機を取り応対した。
「もしもし高原でございます。はあ、さやかですか? おりますので、少々お待ちくださいませ。いま替わりますので」
裕美子は話し口を手でふさぎながら、広瀬っていう男の人からだと言った。
「木偏に真実の真の広瀬だって」
さやかは誰だろうと思いながら受話器を受け取った。
「もしもし、お電話かわりました」
「突然すいません。広瀬といいます」
低音の聞き慣れない声が、そう名乗った。
「広瀬さん、ですか?」
「あ、いや、名前を言ってもおわかりにならないと思います。いつぞやグリーンプラントの店でお会いした、ほらサボテンのコーナーで」
「サボテン?」
さやかは首を傾げながら、思い出そうと努めた。
「あなたがサボテン選びで迷っているのを見て、つい余計な口出しをしてしまった」
「ああ、あの時の」
さやかの脳裏に当時の情景が浮かんだ。
さやかの住んでいる海辺の町から車で一時間ばかり走った山間の国道沿いに、その店はあった。辺りは広大な盆地で広々としていた。木造の店の前には鉢植えの観葉植物が所狭しと並べられており、建物の後部には巨大な温室が付属している。温室内にも多種多様な花や観葉植物が鉢に植えられている。
以前からこの店の前を通るたびに気になってはいたのだが、たいてい二人連れだったこともあり、寄りそびれていた。付き合っていた恋人と別れて一人になったあるとき、さやかはその店のことを思い出して出かけてみた。
温室に入ると、人いきれならぬ植物いきれを感じ、思わず立ち止まってしまった。高い天井の温室内は、透明なガラスを通して射し入る太陽の光で満たされていた。たくさんの植物から発する気というかエネルギーというか、そんな目に見えないものが自分の全身を包んだと思った。
しばらく店内を散策した彼女は、この店がすっかり気に入ってしまい、初来店の記念に何か求めることにした。花の咲くものにしようか、葉の美しいものにしようか、などと物色するうちに、彼女はサボテンコーナーの前で足をとめた。
形の丸いの、細長いの、小さいの、背の高いのなど、一口にサボテンといっても実に様々な種類があった。その中から丸っこい形のを二種類選んで、どちらかを買おうと決めた。しかし、どうしても選ぶことができない。
さやかは買い物をするときなど直感でぱっと決める方である。乱暴な分け方をすれば、左脳人間というより右脳人間になるのかなと思っていた。なのに、どうしてこんなに迷うのだろうと合点がいかなかった。
どれほどの時間をサボテンたちの前で過ごしていたのだろうか。その男に声をかけられて、はっと我にかえった。
「どちらも離れがたく思っていますよ」
「えっ?」
さやかが振り向くと、男が立っていた。日焼けした四十がらみの男だった。
「びっくりさせてごめん。でも、さっきから見ていると、サボテン選びにお悩みのようで。その二人は恋人同士なんですよ。いや、二人っていうのも変ですけどね」
「私、ぼーっとしてました? いやだ。え、恋人同士って、このサボテンがですか?」
さやかは切れ長の大きな目をなおいっそう大きくして男を見た。
彼は洗濯し過ぎてグレイに色落ちしたらしい黒のジーンズを履いており、足下はゴム草履だった。ボトムと同じく色あせた黒のTシャツを着て、首からは無造作にタオルを垂らしている。ふいに汗の匂いがさやかの鼻腔をくすぐった。
「そうなんです。ぜったいに離れ離れになりたくないと、先程からあなたに信号を送り続けていたのですよ」
「はあ、どちらか一つに決められなかったのは、まさかそのせい?」
「ご名答」
「でも、なぜそんなことがわかるんです?」
男は一瞬いたずら小僧のような表情を見せたあと、元の飄々とした面もちになった。
「私が育てたからですよ」
「あなたが?」
「農園をやってるんです。果樹を主に育てていますが、鉢ものも扱ってます。サボテンは特に力を入れてて、世界中から多くの種類を集めていますよ」
「そうなんですか。でも、植物と会話ができるんですか?」
「いや、会話といえるほどのものじゃありません。ただ何となくわかるだけですから」
淡々とそんな話をする男の髪を、晩夏の日光が金色に染めていた。さやかはその反射に少し目を細めながら、男に訊いた。
「彼らを愛しているのですね」
「そうねえ、そうかもしれないな。奴らも生き抜くために必死でやってます。その点は人間や動物と同じです。ただ、植物も動物も、この大地を破壊することはありません。唯一人間だけが有害な存在なのです」
さやかはどう応えていいのかわからずに曖昧に微笑んだ。
「で、この店に鉢植えを卸していらっしゃると」
「そうです。定期的に補充に来ています。今日はちょうどその日だったものですから。いや、すいません、余計なこと言っちゃったかな」
「とんでもないです」
「もしよかったら、二つとも買ってやってください。そうだ、これも何かの縁ですから、プレゼントしましょうか?」
「いえ、自分で買います。二つとも買わせていただきます」
「そうですか。可愛がってやってください。じゃ、私はこれで」
男は軽く会釈すると、出口の方へ歩いて行った。
しばらく呆然としていたさやかは、気を取り直して二鉢のサボテンを持ち、レジに向かった。
「思い出していただけましたか?」
「ええ、ええ。あの時はありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。なんか無理矢理押しつけてしまった形になったなって、あとで反省してました」
「とんでもないです。やはりペアで買ってよかったなと。今でもすくすくと育って、とっても元気ですよ」
「そうですか。それは嬉しいな」
男は電話の向こうで、ほんとに嬉しいんだなと思わせるような声を出した。
「で、今日は何か」
「そうそう、そのことなんですが、ちょっとお願いがあって電話しました。まず、なぜ私が電話番号とお名前を知っているのかと不審に思っていらっしゃると思います。実は、あのグリーンショップに頼みこんで教えてもらいました。次の週に納品に行ったときに、店長との話の中であなたの話題が出ました。彼女が言うには、先週サボテンを買った女性がいたが、レジでお金を払いながら、恋人同士ねえ、とつぶやいていた、綺麗な人だったので印象に残っている、とのことでした。今回あなたにどうしても連絡が取りたくなり、いろいろ考えた結果、あの店長に訊いてみることにしたのです。幸い彼女はまだ在職しており、決して迷惑はかけない旨話して頼みこんだところ、ようやく教えてくれました。セール通知用のアドレス帳にあなたが書いてくれてたから、よかったです」
男は一気に喋ってから一息ついた。
「私に何か急なご用でも?」
さやかは客の情報を漏らすなんて許せないと憤慨しつつも、この男に頼まれたら断り切れないかもしれないと思った。
「ええ、折り入って頼みたいことがあります。これは私の直感ですが、あなたなら偏見なく私の話を聞いてくださるような気がします。つまり、それだけ非常識な、荒唐無稽な話なんです」
「と言いますと」
「電話ではちょっと申し上げにくいのです。一度お会いしたいのですが」
警戒しつつも好奇心を刺激されたさやかは、しばらく考えた末に男の誘いに乗ることにした。
「わかりました」
「おお、承知してくださいますか。ありがとう」
「それで、どうしたら」
「善は急げです。今夜はいかがでしょう」
「えっ、今夜ですか? 夜はちょっと」
「わかります。うら若い女性が、よく知らない男と夜中に会うなんて考えられないと思います。でも、辺りが暗くなってからでないとまずいんです。決して怪しいお誘いではありません。信じていただきたいです。そうだ、せめて夕方にしましょう。それならかまいませんか?」
男の必死な感じにほだされて、さやかはとうとう承知した。
待ち合わせ場所を決めて電話を切ったさやかは、何か言いたそうな母親に先手を取った。
「夕方から、ちょっと出かけてくるね。以前お世話になった人から頼まれ事をされちゃって。そう時間は取らないらしいから、心配しないでね」
「だっておまえ、誰だかよくわかってなかったじゃないの」
裕美子は疑り深そうな表情を浮かべて言った。
「ど忘れしてたのよ。私の部屋にサボテンがあるでしょ? ペアのやつ。あいつらを買ったときに、アドバイスしてくれたのよ」
「それで何の用なの?」
「よくわからないんだけど、何か重大な用みたい」
「ふうん。気をつけなさいよ」
「大丈夫よ。私の男性をみる目は確かなんだから」
そう言ってからさやかは、母と顔を見合わせて肩をすくめ苦笑いした。
3
待ち合わせ場所である道の駅の駐車場に着いたのは午後五時前だった。ほぼ同時に深緑色の四輪駆動車が駐車場に入ってきた。さやかは車外に出て、その車を迎えた。広瀬は、自衛隊が使ってるようなゴツゴツした感じの車だからすぐにわかるよ、と言っていたが、まさにその通りだった。
駐車した広瀬は車から下りてさやかのそばにやって来た。昨年初めて会ったときよりも少し顔の色があせていたが、全身の鋭角的な印象はそのままだった。
「お久しぶりです。すいませんね急に」
「いえ。ご無沙汰してます」
「突然のことで戸惑われたでしょう」
「ええ、まあ」
「ほんとにありがとう。感謝してます」
広瀬は軽く頭を下げた。
「そんな。いえ、いいんです。気になさらないでください」
「そう言ってもらえると嬉しいな。じゃ、さっそくご案内しますよ。私の車に乗ってください。途中から未舗装になるので、あなたのではちょっと」
「ここに置きっぱなしで大丈夫でしょうか」
「なに、そんなに長時間ではないので問題ないですよ」
広瀬は助手席のドアを開けてさやかを乗せると、エンジンを始動して車を出した。車内は大きな外観に比べて意外なほど狭く、後部座席には農機具らしきものが積んであった。
「これでも、ちょっとは掃除したつもりなんですが」
広瀬は車内を見回すさやかを見て言った。
「いえ。初めて乗りました。こういった車を持っている人って、あまりいないのでは?」
「米軍の払い下げなんです。4WDの専門雑誌があって、そこにいろいろ情報が載ってましてね。ま、趣味の世界というのは多種多様で、ほんとにいろんなマニアがいます」
「広瀬さんのご趣味は車ですか?」
「というよりも実用ですね。この車も必要に迫られて買ったんです。なんせ冬に雪が降ったときなど、四駆でないと登りませんしね。私の農園は小高い丘の上にあるから。そうだな、もし趣味と呼べるものがあるとしたら、天体観測かな」
「天体観測、ですか」
「これでも、けっこう倍率の高い望遠鏡を持っているんです」
「理科、お好きだったの?」
「いえ、勉強は嫌いでしたね。一度何かの折りに、小さな望遠鏡で月を見る機会があってね。それ以来、空を見るのが好きになったんです。最近はインターネットでNASAのサイトを見れるけど、あれはすごいよ。太陽系はもちろんのこと、遠い銀河の映像がごまんと用意してある。そうそう、今からお見せするものも宇宙に関係がある」
「えーっ、なんだろ」
「それは着いてのお楽しみということで。今からあなたを私の農園にお連れします。そうだ、コーヒー飲みませんか?」
広瀬はサイドボックスからステンレス製の細長い魔法瓶を取り出し、運転しながら器用に紙コップに注ぐと、さやかに手渡した。
「ありがとうございます。いつも車に積んでらっしゃるの?」
「いや、そういう訳じゃないけど。まだまだ夜は冷えますからね」
さやかは両手で湯気の立つ紙コップを持ち、車の揺れに気をつけながら熱いコーヒーをすすった。
夕陽が落ちていく水平線に背を向けるように、車は内陸部に向かって半時間ほど走り、やがて県道を逸れて丘を登ると、目指す農園に到着した。
腰を下ろしている粗末なパイプ椅子の座面から冷気が伝わってきた。椅子の足が接する地面が冷え込んできたのだろう。
さやかはビニールハウスの中にいた。ビニールは透明でなく、外の景色を直接見ることはできない。普通こういったハウスは内部で何か栽培しているはずだが、ここにはなにもなかった。ただ均された土地があるだけで、所々に雑草が生えている。
昼間電話で広瀬からアウトドア向きの服装をしてくるように言われたさやかは、スキー用ジャケットにニットの帽子、タイツの上にジーンズを履き、足にはスニーカーという出で立ちだった。
さやかは膝をすり合わせながらハウス内を見回し、中央にある奇妙なものに目を止めた。あれはいったい何なの? と彼女は自問する。鉄パイブを組み立てた骨組みに黒いビニールが張られており、大きさは六畳の部屋くらいだった。アルミサッシのドアが取り付けられている。ちょっとここで待っててと言い残した広瀬は、先程からその部屋に入ったまま出てこない。
ビニールハウスの外は刻一刻と暮れているようだ。だいぶ日が長くなったとはいえ、夕方になると暗くなるのは早い。ハウス内の黄昏にさやかは不安を募らせていった。
身体が冷えてきたと感じたさやかが椅子から立ち上がったと同時にドアが開いて広瀬が姿を見せた。
「待たせてしまったね。用意ができたから、どうぞ入ってください」
彼は緊張した面持ちで、さやかを手招きした。さやかは広瀬のテンションに触発されたかのように身体を硬くして、黒い小部屋に入っていった。
さやかは真っ暗な内部を想像していたが、室内はほのかに明るく、奧の床にアイスブルーに光る照明が置かれていた。それは見たこともないような形体をしており、モダンというかアバンギャルドというか、特異な才能によってデザインされたものに違いなかった。
「目が慣れたら、もっと見えるようになるよ。そこにかけてください」
広瀬は椅子を指さした。先程座っていたのと同じパイプ椅子だったが、座面には座布団が置いてあった。さやかは腰を下ろして広瀬の方を注視した。
「なんか緊張するな。他人に見せるのは初めてなんだ。とりあえず、その机の上を見ていてください」
小部屋の中央に置かれた机の上には、更紗模様の布がかけてある他は何もなかった。
机を挟んでさやかの向かいにある椅子に座った広瀬は、目を閉じて息を整え始めた。彼はさやかよりもずっと長い間隔で呼吸を続けた。
いったいなんの真似だろうと怪しみながらも、さやかは次第にこのゆったりした時の流れに馴染んでいった。広瀬に合わせるように、彼女の息もゆっくりになっていく。
気温が下がってきているにもかかわらず、さやかは眠気を感じ始めた。ここで眠ったりしたら失礼だと必死でこらえるのだが、瞼がしだいに重くなってくる。しばらく睡魔と闘ったあと、彼女はついに一瞬の居眠りをしてしまった。ほぼ同時に広瀬が叫ぶ。
「やった」
「えっ?」
すぐには何か起きたのか理解できず、さやかは目をしばたいた。
「いつもより時間がかかってしまったよ」
「なにがですか?」
「机の上を見てごらん」
そう言われて視線が机の上に焦点を結ぶと、そこには紅い林檎が一つ置いてあった。
「あれ? いつの間に」
「置いたのかと言いたいんだろ? 置いたんじゃないんだ。出現させたんです」
「これって、マジックショーですか?」
「違うよ。いいかい、もう一度やるから今度はちゃんと見てて」
広瀬はふたたび目を閉じると、ゆっくりと呼吸を続けた。
さやかは、今度こそ見逃すまいと机の上をじっと見た。しかし、また眠気が訪れて、うとうとしかかった。そのとき、広瀬の声が飛んだ。
「ほら」
瞬きのあと目を凝らすと、一個目の林檎の隣にもう一個の紅い林檎があった。
さやかはこの現象をどう理解していいのか戸惑っていた。驚くとか恐いとか、そんな気持ちちは失せてしまって、彼女はただぼんやりとしていた。
「どう?」
広瀬が少しばかり上擦った声で言う。
「どうって」
「だいぶ調子が出てきたから、もう一回やってみよう。今度はもっと早くできるだろう」
広瀬の言葉どおり、ほどなく三つ目の林檎が出現した。しかし、色は紅ではなく薄緑だった。
私はきっと夢を見ているのだ。さっきから眠いのはそのせいだ。さやかは混乱してきた頭で、そう思い込もうとした。
「もしかまわなければ煙草吸いたいんですが」
椅子の背もたれに寄りかかり、全身から緊張を解きながら広瀬が言った。
「かまいませんよ」
「ありがとう。これやると神経使うからね」
広瀬は上着の内ポケットから、くしゃくしゃになった煙草の箱を取り出し、中身を一本抜くと火を点けた。狭い室内に青と白の煙が漂い始める。
→ chapter-2
2008年05月19日
chapter-1
posted by tomo at 13:13| Comment(31)
| 長編小説
この記事へのコメント
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Posted by 出会い at 2011年12月30日 20:53
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Posted by セックス at 2011年12月31日 19:58
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Posted by スタービーチ at 2012年01月17日 01:04
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